毎度おなじみの武田邦彦氏のブログをそのまま引用しました。
本当は、必要なところだけと思ったのですが、私の意見をどうもうまく伝えられません。
「え~っい面倒だ。そのままコピーだ」ということで。
====ここから武田邦彦(中部大学教授)氏のブログから引用
司法の崩壊・・・「最高裁の罠」(書籍、本日発売)と下地先生の逮捕
「tdyno.51-(6:47).mp3」をダウンロード
三権分立のもとで司法の主たる役割は何か? どこに何が書いてあっても、その第一の任務が「権力から国民の権利を守る」ことであるのは間違いない。もともと司法が権力側にいるなら、簡易裁判所ぐらいがあれば良く、最高裁判所のように国の権力に対抗できる力を持つ司法は入らない。
ところが、立て続けに2つのこと、一つは出版、一つは逮捕劇が起こった。
小沢一郎という政治家は口べたなのか、自分のしていることをほとんど話さない。だから「ダダ漏れ」を支持する私としては信頼していないが、それでも「小沢一郎を起訴した警察審査会は開かれていなかった。最高裁事務総局の陰謀だった」という内容の書籍「最高裁の罠」にはビックリした。
私は科学者だが、この書籍は「科学的事実」が書かれていて、政治の本と言えば政治だが、科学書としても立派な内容で事実がしっかり整理されて示されている。日本のメディアがこの事実を取り上げないのは驚きだし、「小沢が好き、嫌い」を超えて最高裁が犯罪を犯すこと自体が日本を揺るがす。
下地先生の逮捕も司法が権力よりであることを十分に計算した警察の動きである。下地先生は大学の教官で、大阪の瓦礫焼却に反対されて抗議文を正当な手続きで大阪府に届けようとし、その経過の中での駅の通行妨害で逮捕された。
さまざまな動画の記録が残っていて、到底、下地先生を逮捕に至るような通行の妨害はない。むしろ行動は冷静で、尊敬すべき立派な先生であることがわかる。
警察は、街頭、または駅頭のような公共のところにおける表現の自由についての制約(届け出でなど)を最大限に生かして逮捕に踏み切ったのだろう。しかし、すべてを超えて国民の表現の自由が大切なことは言うまでも無い。
もし、日本社会がこれほど権力に弱い状態でなければ、我が子の健康を心配する人たちが表現の自由の元に自らの意思を示すことに対して、警察は届けを出したJR西日本より、国民を守るはずだからである。
自由は戦わなければ獲得できないというが、それは精神が劣るヨーロッパのことであって、武士道のもとに誠実と恩を精神的支柱にしている日本でこんなことがあるのは許されることではない。私も何度か鑑定で裁判の実体を見ているが、日本の裁判に正義を期待することはすでに幻想である。
(平成24年12月10日)
武田邦彦
(C)武田邦彦 (中部大学) 引用はご自由にどうぞ
====ここまで引用
司法関係者は悪人を減らすことが仕事。
こんなことは誰でもわかっていることです。
しかし、その当事者が悪事を働くとは。
じゃんけんなら、グー×パーは、パーの勝ち。パー×チョキはチョキの勝ち。チョキ×グーはグーの勝ち。
司法、立法、行政は?
行政権とは、法にのっとり国を動かする権力で、立法権とは、法を造る権力。最後は司法権で、憲法、並びに各種の法規違反者を裁く権力を言いますが、こんなことは中学校(もしかしたら小学校)で習うことですが、一応念のため。
この三権が機能して、国は治まっています。
でも、機能していないのかな。
じゃあ、どこが悪いの。
じゃんけんの関係でいうと、官僚、政治家、国民はどうなるか。
官僚×国民は、官僚の勝ち。
官僚×政治家は政治家の勝ちとならなければならないのに、官僚が勝ちます。
政治家×国民は、国民の勝ち、のはずですが。それは選挙の時だけですねぇ~。
政治家が官僚に勝てないから、変な図式ができあがると思うのは私だけでしょうか。
その政治家を選ぶのは誰かというと、上の図式から、本来は私たち。
ということで、悪いのは、私(国民)かな。[^^;;