過去と現在の最近のブログ記事

鶏小屋は手づくり

2012.0801昭和29年頃の写真DSCF4910.jpg

この写真は昭和29年。

右から二人目の私は5歳で、母は26歳。

若い!!。み~んな。


腰かけているものはトウモロコシ殻。

ということは、写真を撮ったのは9月頃かな。

後ろの建てかけた建物は鶏小屋ですが、トウモロコシの殻は、内側から壁に取り付けて、いまでいうなら断熱材です。

外壁は、稲わらを練りこんだ土でべたべたと貼り付け完成させます。


撮られた時のことははっきりと記憶していますが、写真の左側に積み上げてある枯草のようなものは、稲わらですから、10月かもしれません。

久しぶりに太陽が出て、チトまぶしい。そんな秋の一コマでしたね。

私って記憶力が良い~~~、と言いたいところですが実は違って、カメラを向けられるのは、年に3回ほど。

つまり珍奇な状況なので、じぃ~っと見つめた結果、私の記憶にも撮れたのです。[^^;;

昭和29年頃の我が家

2012.0725昭和29年ころの写真DSCF4645.jpg

この写真、昭和29年ころですから、私が5歳です。

カメラ目線は1歳下の弟、坊主頭は私で、父は鶏のエサをやっています。


今でもこの写真を撮られる状況をはっきり覚えていますが、赤平市文京町のお米屋さんのおじさんが、カメラを持って遊びに来た時のものです。

ちなみに、一歳下の弟、いまはある町の市会議員をしていますが、この時のことを覚えていないとのこと。

1歳って、だいぶ違うんだ。[^^;;


懐かしい写真ですが、今では鶏小屋(最近は鶏舎という)でも、こんなぼろ屋はありませんね。実はこれ、詳しくは父の頭の上に見える窓部分、ここはが寝室なのです。

つまり、自宅。

真冬など、吹雪の日は朝起きると、頭の周りは真っ白なんていうこともありましたね。

よく生きていたものです。[^^;;


追伸
ブログを書いて、今頃なんですが、この写真一度使ったような気がしてきました。
もし二度目なら、ごめんなさい。

赤平青年会議所のこと

なんでだろ~、なんでだろ~、・・・・。これはお笑い、テツandトモ(古ッ)。

でも今日体がだるいのは、なんでだろ~。


午前中北海道サフォーク牧場放牧地の掃除狩り(不要な草を刈り取る)を、ゴムキャタトラクターに乗ってやっていました。

崖から滑り落ちそうになったのが1回。側溝に落ちそうになったのが2回。

体がどうも自由に動かないと思ったら、昨日の就寝は夜中の12時。

いつもは9時過ぎなのに。


そんなことで昨日の話しです。


実はある団体の研修会に出席したのです。

いつもは、研修会だけで終え帰宅するのですが、交流会まで付き合いました。

この団体は赤平生年会議所。

実は、私は25歳から40歳まで、この赤平青年会議所に所属していたのです。

久しぶりの青年会議所の若々しいメンバーとの研修会。

そのまま帰宅は勿体無いと行くことで、夜中の交流会まで。


私の所属していた当時は、50人を越えるメンバーで、それはそれは活気がありました。

いつも喧嘩で。[^^;;

ところが現在は13人とのこと。

行く前から、きっと寂しいだろうなと、一人合点して行くと、ちょっと雰囲気が違いましたね。

人数は少ないですが、やる気、元気、熱気というか、総エネルギー量とも言うべきか、これが50人時代と変わりませんね。

つまり今のメンバーは、一人当りの能力が高そうです。

悔しいけれど。

この人たちが、私の年齢になる頃は、どんな赤平市になっているのか、楽しみです。


でも心配事が一つ。

それは年寄り連中、特に私を含む団塊世代の邪魔。これさえなければと思うのです。


ということで、そろそろ皆で隠居を。[^^;;

成人式

今日は1月10日。成人式です。


山口県の下関署で、模造刀を持っていた新成人が銃刀法違反で現行犯逮捕されました。

へ~、模造刀なのに逮捕されるんだと、よく記事を読むと『模造刀剣類の携帯の禁止』と言う法律があるようです。

なるほど。

ということは、お土産屋さんで模造刀を買ったら注意をしましょう。

だって帰宅までに警察に見つかると逮捕されることになりますよね。

あっ、でも私は模造刀を買う、じゃなく集める趣味はありません。

模造拳銃も趣味はありません、念のため。


さてそれはともかく、最近の荒れる成人式。

私の時はどうだったかなぁ~と。

いくら思い出そうとしても、出てきません。


あ~~、思い出しました、そういえば成人式には出なかったですね。

なんでだろう、理由は覚えていません。

あっそうだ、一つ思い出しました。

成人式の次の日、相方とアルバイト先の職場で顔を逢わせるなり「成人式に出なかったの?、探したのに」と。

これは、嬉しかったなぁ。


まだ付き合いもしていませんでしたが、この言葉と表情は今でも思い出すことができます。

しばらく後で成人式の写真を見せてもらいましたが、これがもう美人で、・・・。


すいません、ノロケです。[^^;;

北海道新聞

いつからだったかなぁ~、北海道新聞を読み始めたのは、・・・・思い出せない。

そのくらい昔。

我が家は子供のころ貧しかったので、新聞を継続して読んでいた記憶はありません。

でも、小学校へ入る1年くらい前から、母が新聞の活字を指差してひらがなを教えてくれた記憶があります。

それは昭和30(1955)年頃の話ですから、まぁ、天文学的昔の話になるかな。


最初に覚えた文字が「の」。

次が「い」、でその次が「わ」。

で、「ゐ」ですが、これ読めますか。「い」です。

つまり、「いわゐ」なんですね。小学校へ入る1年前で、この「ゐ」が難しかった。

要するに「い」は解るのに、なぜ下の「い」が「ゐ」なのか、その理由がわからないし、「の」ともよく間違っていました。

そのあと、「ま」を覚えて、母としてはその次に「さ」「み」を覚えさせ、名前を書けるようにして小学校へ入学させたかったようです。

しかし、そのあと盲腸が手遅れになり、緊急手術で1ヶ月半入院。

あと1時間遅れたら危なかったほどの緊急入院だったことは、社会人になってから聞きましたが。


で、今でも覚えていますが、退院後ふらふらの状態で小学校1年へ入学。


つまり、私は自分の名前の「いわい まさみ」の途中「いわい ま  」までしか覚えないで小学校へ入ったのです。

私の住む地域には、当時は幼稚園なんてありませんでした。


今でも覚えていますが、小学校1年の時、10までどころか、数はぜんぜん数えられませんでしたね。

学校へ入ってみると、同じクラスの女の子が1、2、3、4、・・・・・と数えて止まりません。

担任の畑中先生が、途中で止め、「ところで、Sさん、幾つまで数えられるの」と聞いた所、ちょっと首をかしげて、「1000まで数えられます」と言ったのには、驚きました。

と、いっても一つも数えられない私は何がなんだか解らなかったのも事実が。


でも、大変なことだというのは、なんとなく解ったような気が。[^^;;

赤平西高校 昭和43年卒業 3年C組 クラス会

先日の北海道新聞によると、来年から赤平高校(私が在籍していた当時は赤平西高校)の募集は無くなるとのこと。

つまり我母校はあと3年で廃校になります。(小学校・中学校はとっくに廃校)

赤平の町上げて大騒ぎしていますが、ここにいたってはもうどうにもなら無いでしょう。


で、私はというと、いまから遡ること43年前に赤平西高校を卒業しました。

昨日、昭和43年卒業の3年C組は、初めてのクラス会を43年ぶりに定山渓で開いたのです。

2010.0605赤平西高3Cクラス会IMG_1446.jpg
札幌定山渓温泉にて。


さて全クラス54名中23人の参加、その中で8人が本州からの出席ですから驚きです。

43年ぶりに顔をあわせたのは7人かな。でも、嬉しいことに3秒で顔と名前が一致。


43年の年輪の刻まれ方はすさまじいですね。[^^;;

太っていた人が痩せていたり、痩せていた人が太っていたり、また、頭も限りなく白く薄くと、それはそれは見事なものです。

それぞれに色々な人生があったんでしょうね。

顔のしわも深く長く。

でも、ここに集まることができた人は幸せです。

来ることが出来るほどの、経済力と時間と家族(いる人は)の理解があったからですよね。

もっと言うなら3何C組では、5人が亡くなっているのですから、生きているからこそです。

ということで黙祷から始まりました。

全員のスピーチは楽しいものでした。また、それに続くM中君のプロジェクターに映る写真集は、感動の物語でしたね。

M中君には心から感謝します。


こうして過ごした楽しい3時間はあっという間でしたが、高校時代の写真を見て思ったことが一つ。

あの時代を思い返すと、当時は不満ばかり言ったり、ずいぶんとんがっていたり、すねていたりと、今から考えるとこっけいな自分を思い出します。

でも、高校生時代の写真を見ると、まぶしいほど輝いていたんですね。

み~んな。

若いってそれだけで、価値あるものなんですねぇ~。


ところで、私は、卒業時に幹事に指名されていましたが、恥ずかしながら日常の忙しさにかまけて、幹事として肝心なことは何もしていなかったのです。

だから今回が初なわけで。

ここは笑ってごまかすしかありません。[^^;; ごめんなさい


追伸
M林、M中、O橋、K木の4君にはこの場から感謝します。

仕事と趣味


今日は私の仕事と趣味の話し。


仕事とは生活に必要なお金を稼ぐ手段。

趣味とは己の欲を満足さるためにお金を使う、ことや物。

仕事は嫌でもやらなくちゃならないのでお金が入ってくる。趣味は自分が好きな時間やことだけで良いからお金を使う。

と、こう私は考えています。

直裁に言うと、仕事はお金が入ってくる。趣味はお金が出て行く。

これで間違っていないかな。


それで自分はどうなんだろうと考えてみました。


仕事は解り安いので置いて。


私の趣味はどうかと言うと。

しばらく前はゴルフでした。でも、お金はともかく時間が掛かり過ぎ、人生残された時間はそう長くも無いのに、ゴルフが趣味では勿体無いと思うようになり、50肩の痛みを理由に止めてしまいました。

その前はコレクター。とにかく何でも集めてみました。

でもこれも、なんの生産性もないゴミの山を作っているだけだと気が付いたとたん、白けて止めてしまいました。

次にグルメ。というか食べ歩き。

胃袋は一つ、こりゃだめだと長続きしませんでしたね。

外国旅行。これはお金と時間が掛かりすぎ、と言う理由で挫折。

良い車は不要。高級なスーツはいらないし、ばくち、女遊び、お酒。どれもこれも興味なし。

何でこうなったのか。

簡単です、私はケチだから。[^^;;


ということで、一番長く続いているのが仕事。『稼ぐ』と『使う』が一緒ですから、これが実に便利。

あれっ、これってもしかしたら、仕事と趣味が一緒。と、気が付いたのが最近です。


私は満足していますが、もしかしたらつまらん人生かも。[^^;;

赤平西高3年C組


夕べは札幌へ。

赤平西高3年C組のクラス会へ向けた準備会、兼ミニクラス会。

女性二人を含む9人が集合。

み~んな元気。

そんな中でも女性は特に元気でしたね~。そして若い。

それにひきかえくたびれているとは言いませんが。男はやや疲れ気味。

なるほど、女性は平均寿命が長いわけだ。

明らかに差があります。[^^;;


私はというと、お酒を飲まず5時半から8時までで途中退席です。ごめんなさい。

それから1時間半掛け帰宅。ちょっと疲れましたがでも心地よい疲れです。


9人中、高校卒業以来42年ぶりの同級生は3人。

でも時間なんて関係ないですね。60秒もあれば18歳から60歳までワープするんですから。


さて、今日のブログタイトルは赤平西高3年C組としました。

もし検索でここを見た方は連絡をください。今年6月にクラス会を開催します。

メールはブログ左横に有る、『筆者にメールを送信』から送れますよ。


こりゃ便利だ。[^^;; 

高校のクラス会

北海道は赤平市生まれの私ですが、学校は小学校中学校そして高校と全部赤平でした。

で、ちょうど三回目の成人式は切がいいということで、8月22日に小中学校(小学校と中学校の併設校だったので)のクラス会を盛大に開きました。


それは良いんですが、実はここへきて卒業してから40数年一度も開いたことの無い高校のクラス会の話が急に持ち上がったのです。


ある日突然、9月始めですが高校の同級生から手紙が来ました。

『え?、もしかして』と思ったら案の定。「高校のクラス会を開くために住所を調べないか」とのこと。


これは還暦を迎えて、残り少ない人生をお互い慰めあおうとでも言うのでしょうか。[^^;;


で、3日にその準備会とも言うべき集まりがありました。

『7人の侍』とまで力む必要はありませんが、札幌方面から3人と地元赤平近郊から4人が集合。

たった7人なのに卒業以来の人が2人。

その一人K木君、顔をあわせるなり、「誰だった?」とは、ほんと失礼なやつだ。

こちらは解ったのに。

いつも鏡で自分の顔を見て、高校生の頃とちっとも変わっていないと悦にいっているんですが、まぁ大きな勘違いなんですね。

で、30分位して「だんだん解ってきた」とのこと。

ん~~、そんなに毛が、じゃなく影が薄かったかな。[^^;;

価値と無価値

◎私が価値無いと思うもの。

 高級車、豪邸、贅沢、名誉欲、権力、勲章、競輪、競馬、
 タバコ

◎私にとって価値あるもの。

 自分、家族、先祖、子孫、友人、仕事、時間、考え方、
 戦略、ゆめ、希望、笑い、眠り、食べ物、職人、水、酸素
 しゃれ、やりたいと思うことがやれること
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◎判断付きかねているもの

 お金、宗教、高学歴、ゆとり、忙しさ、趣味、政治家、官僚
 インターネット、※この項目の順番。

クラス会

昨日中学校の思い出を書きましたので、今日も一つ。

非常に中の良いクラスでした。なんせ9年間34人(?)でずっとほぼ同じ顔ぶれだったもので。

ですから、小学校2年のとき、誰が転校していき、また入ってきたとか、5年生のときは誰が転校してきたとか、中学校1年では誰が、転校して行ったとか、ほぼ全て把握しています。

で、9割は同じ顔ぶれ。

他にも誰が何年生のときお漏らししたとか、忘れたほうが良いようなことまでも、鮮明に覚えています。

そんなことで、クラス会はよく開いていますが、まとまり良く仲の良い理由はもう一つあります。

それは、卒業時の担任の先生です。

その先生は、中学1年の2学期に赴任してきたのですが、この先生が兎に角素晴らしいのです。

私の人生で、心から先生と呼べるただ一人の人かな。

次にックラス会を開く約束は60歳。でも出席するかどうか迷っています。

30歳のときはまだ良かったのですが、40代のクラス会では、孫が居ると話している者が居ました。それは良いんです。

50代のときはそれが一段と進んで、そんな話と昔の話ばかりです。ん、、、これもゆるせるかな。

これじゃ60代のときには、どんなクラス会になっているやら。過去の思い出ばかりになりそうで、これが怖いのです。

私としては、もっと先の話、将来の話をしたいのです。でも、これでは夢のある話を交わせそうにありません。

むろんいまさら青年のような話まで期待はしませんが、人生はまだまだ先は長いのです。

これからどう生きるかとか、自分の人生の締めくくりはどうありたいとか、過去の話ではなく先の話をしたいのです。

むろん過去の話を楽しむことを否定するつもりは在りませんが、でも、人は死ぬまで生きていかなければなりません。

私も先の方が短くなってきたので、その短い時間を充実した時間とするために、過去を振り返っているばかりの時間はどうかなと。

偉そうな事を言っていますが、でもこの話、
私が60歳まで生きることが前提の危うい話です。[^^]v

教科書のお下がり

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親戚から、教科書のお下がりを貰った話の続きです。

思い出しました。

あるとき同じ町内に住む人からお下がりの教科書を貰ったことがあります、しかし、なんと年齢が二つ上。

つまり、1年あいだを空けてのお下がりです。

不都合は沢山ありましたね。たとえば授業中教科書を開くと、先生の話と書かれていることが微妙に違うとか。

内容ばかりではなく、先生の指示するページも違ったりするのですから。

結局そのまま使いましたが、なんでと疑問に思う人もいるでしょうが、かなり貧しかった両親は教科書代を浮かせようとしたのです。

当時私は余白に落書きのある薄汚れた教科書で勉強しましたが、同級生の中には真新しい教科書と筆箱、鉛筆を持って新学期を迎えるものもいます。

今考えると、生活保護を貰っている家庭も真新しい教科書でしたね。

しかし、子供の頃はそんなことは理解できません。

40人前後の同級生の中で、兄や姉から教科書のお下がりはあったとしても、丸きりの他人、それも、二つ上の人からのお下がり教科書、これはそう多くはないでしょうね。

そんなこんなで『なんで俺だけお下がり教科書なんだ』と、なんとなく解る我が家の状況で、ぶつけようのないイライラを感じたものです。

でも、その教科書、一つ下の弟へ行きました。

くさいがすき

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サフォークを飼っていると糞尿の処理が必要になります。また『北海あいがも』も家畜の一種なので、尿はしませんが糞はします。

これらの処理はどうしているかというと、堆肥にします。

完熟した良い堆肥は、肥料として牧草地へ散布します。で、牧草は綿羊のえさになるのです。

良い堆肥を作るには、数回天地を逆に(堆肥の切返し)します。適度に酸素と水分をいれてやるんですがこの写真はユンボで切返し中です。

切返し中の堆肥.jpg

湯気が上がっていますが、堆肥の中は70℃以上になって発酵しています。

この切返しをすると、湯気と一緒にものすごい匂いがでるんですよ~。

この匂いは初めての人だったら、きっと吐き気をもよおし絶対嫌うでしょうね。

しかし、私はこの匂いが大好きなんです。

変でしょうか。

今日なぜ他の人が嫌うこの匂いが好きになったか解りました。

それは子供の頃まで話はさかのぼりますが、我が家は畑作農家でした。

傾斜面の畑は粘土地で肥料分は少なく、野菜のできも悪かったので、自宅の玄関脇の空き地で父はいつも堆肥を作っていました。

毎年春になり良い堆肥ができると、その堆肥を手にとってニコニコしている父を見て育ったのです。

だからでしょうね。

良い堆肥のにおいが好きになったのは。

でも、良い堆肥ができたからといって、生活が楽になるとは限りません。

成人式の予算は1万円

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昨日今日とニュースでは成人式の話題でもちきり。

特に今年は夕張の予算1万円の成人式が話題となっていましたね。あれ?でも成人式とは言わずに成人祭と言っていた様な。

しかし夕張の成人式には、昨年まで60万円の予算が付いていたようです。

破産してしまったのではしょうがないような気もしますが、ちょっと気になったのは、いい思いをしたのはもう故人となった人か引退した人たちで、今の若い人はむかしのつけを支払わされているような気がしますね。

ところでテレビニュースで成人式を見ていましたが、ずいぶんおとなしい式典ですね。

荒れる成人式が話題になって何年経つでしょう。式典で他人に害を与えるのは論外だとしても、おとなしいから新成人が良くなったと言って喜んで居られませんよね。

なぜなら社会全体が少し陰湿になっているような気がします。

高校2年生の時、自分の人生を決めました。ちょっと大げさかな。進学をあきらめ就職先を決めたのです。

父は3反ばかりの田圃と1町ほどの畑。そして鶏を数百羽飼育していました。母は赤平私立病院に看護婦として勤務。

で、私は高校2年生の夏休みに、養鶏をやりたいと話したのです。

父は「そうか」と一言。

もっと何か言うのかと思ったら、感動も感想も、愛想も何も無い、いずれにしてもそのとき、今の人生に繋がる選択をしたのです。

後悔はしていません。

なぜ高校2年の時自分の進路を決めたのか。それは、いま牧場を経営する友人の一言です。

高校2年の春に友人と二人で帰宅の道すがら、丘の中腹にある田のあぜに腰掛、高校の屋根を見ながら将来の夢を話したのです。

私は「大学へ行き、弁護士になる」と。

友人は「髭をはやしたいい大人になってから、親父の扶養家族でいたくない。おれは牧場をやる」とのたまう。

当時も友人の父親は赤平の開拓農家で牧場を経営していました。

私は変に感動して「そりゃそうだ。よし俺も養鶏をやろう」と。

私は当時のことを今でも鮮明に覚えていますが、その友人に聞いたところ覚えていないようでした。

悲しかった。

でも、後悔はしていません。

小学1年の冬の話です。

学校から自宅までの距離は700mです。しかし、小学1年生にとってはかなりな距離でした。

当時は、一度雪が降ると自宅までの道路は、春まで除雪されません。

しかも、国道から自宅への道路は私の家1軒だけでした。ですから、朝学校へ行った足跡が、帰りまでそのままの時もあります。

晴れている時は、朝来た道を、いや足跡をそのままたどって帰るのですからまだいいとしても、問題は吹雪のときです。

少しの吹雪でも、瞬時に道路はかき消されます。で、何処が道路か判別できません。

いまでも北海道の小学校ではそうでしょうが、当時も猛吹雪になると集団下校となり、みんなで一緒に帰宅したものです。

危険な猛吹雪の集団下校でも、私は学校から200m過ぎると、たった一人で横殴りの雪の中を、500mも歩いて帰らなければなりません。

10m行っては一休み。5m行ってはまた一休みと、何十回も休みながらでないと小学1年生の足では歩けないのです。

これは決して大げさな話ではありません。

休み休みと書きましたが、実質は立ち止まり呼吸を整えて歩き出す。そんな感じでしょうか。

猛吹雪の中を歩くと、風向き次第では息継ぎができないことがあり、大げさではなく何回このまま死ぬのかと思ったことでしょうか。

でも、その猛吹雪って、大好きだったんです。

実は、それは今もなんです。

この写真は昭和33年ですから、もう47年も前になります。

寂しいテーブルの上に、ご飯茶碗がそれぞれに1個、みんなで箸を付けるおかずの入った小皿が一つ。

他に小鉢が2個。この小鉢のおかずは私(9歳)と弟(8歳)の前にあります。それに醤油入れが一つです。

これでも私たちには楽しい我が家でした。一度も貧しいと思ったことはありませんね。

昭和33年頃の食事風景 2 .jpg
昭和33年頃の我が家の食事風景

しかし、今回あらためて写真を見ると、父の食卓の前にお酒はありません。今は晩酌をしていますが、当時はそんな余裕もなかったのでしょう。

それより、この写真を見て驚くと言うかせつないと思うのは、父と母の食膳におかずがありません。ご飯だけです。

私たち兄弟の前におかずの小鉢が有るということは、自分たちは食べないでも成長盛りの子供にひもじい思いをさせないとの考えからでしょう。

もっとも、当時私たち子供は、両親がそんな配慮をしていることに気も付きませんでした。

戦後の傷もまだ癒えない日本ですから、全体に貧しいとは言え、後から考えると、赤平の市街地はこの頃、石炭の増産という国策で、絶頂期を迎えていたのです。

しかし、傾斜地を開き畑作農業を少しばかり営む我が家に、その恩恵は一つもありませんでした。

空っぽの茶箪笥と、何も乗っていない食卓風景ですが、私たち一家の希望はこのまなざしの奥に見ることが出来ます。

こんな時代に育った私は、いまでも本能的にでしょうか、贅沢はできません。

1枚の写真からも学べますが、お金のあるなしで幸せが決まるとはどうしても思えないのです。

貧しい中で両親の見ている先は、希望です。未来に対する夢です。

幸せか不幸かは、環境やましてやお金にあるのではなく、自分の心の向いている方向にあるような気がします。

しかし、だからと言ってお金を不要だとは言いません。

お金で幸せは買えませんが、お金の使い方の上手な人、下手な人では、その度合いはずいぶん違うでしょうから。

音楽が嫌いな理由

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私の嫌いなものの筆頭に歌がある。だからカラオケは行かない。いままで3回だけ行った。

他には、野球とサッカーなども好きではない。というより好きな人には申し訳ないので遠慮しながら言うが、嫌いだと言いたい。

なぜ歌が嫌いになったの?

下手。これが一番の理由?

これもあるが、ちょっと違う。

理由を考えて見たが、さかのぼると、小学生1年、2年生の過去に理由は発っしている。

当時は担任の先生が音楽の先生もかねていて、全員合唱の練習中にこう言うのだ。

「このクラスは、みんな歌が上手だね~。もう一度、はい、、」と何回か唄ったあと必ず
「岩井君と、○○さんはちょっと休んでください」
「はい、も一度、、、」と、また合唱をするのだ。

その休んでくださいと言う、○○さんは、クラスで一番勉強のできる女生徒だった。

で、その人と一緒に休んでくださいと、言われたので私は、『私も別格なんだ。』『歌がうますぎるから休め」と、言われていると思っていた。

ず~と、そう思っていた。

とんでもない勘違い。また、考えようによってはおめでたい人間。それとも小学1年生で、まれに見る自信過剰人間。

そういう勝手な思いは、小学1年生から3年生まで続いたのだ。

小学3年生になって、女の先生が担任になったが、その先生は私の歌が下手なことをはっきりさせた。

どうはっきりさせたか覚えていない。またその先生にうらみは無いが、小学校1年と2年の時の担任の先生には、、、

あとは、想像に任せよう。

この辺から私は音楽が嫌いになった。
 

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